style
Where the runway meets the street

でもです、

Mama Luli (Tokyo)

ストリートスタイルにおいて東京に勝る都市はないかもしれない。日本の首都であるこの街には、辺りを埋め尽くすネオンの数々と同じくらい無数のクールでおしゃれな人々がひしめいている。しかし、そんな刺激過剰な視覚の海においても、Mama Luli(本名塩井るり)はとてつもない存在感を放っている。東山ダイナーカフェ、「BREAKFAST CLUB」の共同経営者でありMama Luliケータリングを率いる彼女が活気溢れる東京のフードシーンに一石を投じたのは、単に彼女の料理の腕が飛び抜けて良いからのみならず、彼女がハイファッション関係者を惹きつける人物だからでもある。

「ソウルブラザー」である野村訓市と BREAKFAST CLUB を開店する前の数十年間、彼女が今日の「インフルエンサー」であれば夢に見ることくらいしかできないような放蕩生活を送っていたことを思うと、そんな現象も不思議ではない。ガストロノミー業界に進出する前の自身の生活について「1980年代はずっとニューヨークのダウンタウンでミュージシャンをしていた」と語る。「1990年に東京に戻って来て、クリエイティブディレクターの仕事を始めた。GOLD とか MILK とか X+Y とかル・バロン・ド・パリとか、伝説のナイトクラブでたくさんのイベントを開いたりして」

ナイトライフ業界で長年働いた後、店のレジ係の年配女性たちが地元の人たちと挨拶がてら話していた内容をヒントに、2012年、ケイタリングビジネスを開業。ジョン・ヒューズのクラシック映画のタイトル『ブレックファスト・クラブ』をそのまま冠したお店、Breakfast Club を2016年開業。

“人と直接つながれて、歳を取っても働けるようなコミュニティスペースが作りたかった”

その目標は達成されている。ナイトライフでのキャリアで確立されたファッショナブルな都会の若者からの信頼が基盤となり、客は「口コミでついて来てくれた」とMama Luli と訓市は語る。長年の経験を誇りとする Mama Luli のこれまでのサポーターらが育っている一方、彼女は現在、訓一と共に開いた自身のレストランに新たな世代を惹きつけている。「アーティストのクリエイティブなエネルギーに惹かれる。アーティストの活動やストーリー、言動に関心を持っている。ひたすら毎日ひとりひとりに挨拶をして、お店でくつろいで過ごしてもらって、帰りは心を込めて送り出す」

SNEAKERS ¥100,000 COAT ¥330,000 SKIRT ¥130,000

当然、彼らの仕事はお客を笑顔で見送るだけではない。Breakfast Club Tokyoは、Mama Luli が毎日お店に注ぐ努力の下に成り立っている。そんなフードサービス業界では、開店前の準備段階で履いたスニーカーが違いをもたらす。その選択に秀でた Mama Luli のファンやサポーターは幸運だ。そんな彼女だから、バーバリー「アーサー」キャンペーンにうってつけの人物なのだ。デザイナーもの、ヴィンテージものを織り交ぜたコレクションを所有することに加え、Mama Luli はウェイトレスをする傍ら、スニーカー狂でもあり続けている。

SNEAKERS ¥100,000 T-SHIRT ¥68,000 BAG ¥260,000

Mama Luli にとって良いスニーカーは姿勢を良くしてくれるものであり、また当然、自分を目立たせてくれるアイテムでもある。しかし Breakfast Club Tokyo はファッションの中心地と捉えるべき場所ではない。Mama Luli は着飾り、スニーカーを見せるスタイルを楽しんではいるが、彼女の伝えたいシンプルなメッセージは、その料理にこそ最もよく込められている。「地中に巡らされたキノコの繁殖網のように、いろいろな個人の方がつながり、支え合い、互いを刺激し合って全ての人の役に立つようなものを目指したい」

KATOMAN(Tokyo)

東京版タイムズスクエアとして知られる渋谷区の眩しい混沌を凌ぐものはなかなか想像しにくい。聳え、ひしめくネオンやスクリーンが知覚を刺激して余りあるそんな渋谷。VISIONやContact、HARLEMなどカルチャーの聖地とも言えるクラブが連なる道玄坂にあるビートカフェと呼ばれる大衆酒場が、この街のクリエイティブ層にとって熱いスポットとなっている。

もちろんこの場所がアーティストや音楽愛好者の溜まり場となっているのには理由がある。薄暗い照明からヴィンテージの VH1 ビデオ、2F のイベントスペース 「Echo」に至るまでの全てを、生涯を音楽調達にかけるKato Manが丹念に作り込んでいる。2006年に東京のこれといった特徴のない黒いドアのテナントにビートカフェをオープンさせる以前、1990年代の Kato Man は、ラジオ局やレコード店に勤め、さらには自身の音楽エージェンシー Dotlinecircle の立ち上げも行っていた。

SNEAKERS ¥100,000 TRENCH COAT ¥270,000

“ビートカフェは音楽、アート、スケート文化好きな人の交流の場。最高ですよ”

Kato Manは誇らしそうに語る。現在は日本国内外の客で一杯の彼の大衆酒場こそが、音楽愛好家たちの居場所となっている。彼がバーの仕事の領域を出て、日本におけるBURBERRYのラグジュアリースニーカー「アーサー」キャンペーンのフロント役を受けたことは、自分にはこれといったスタイルのようなものはないと言い放つ彼にしては意外、かどうかは別としても「最高」なことだ。

SNEAKERS ¥100,000 SHIRT ¥47, 000

「スタイルを持たないことが自分のスタイル」だと彼は言うが、そんな無頓着なアプローチこそが、他のどんなファッショントレンドよりも長く続くバイブであり、何十万キロも離れた場所からインターネットを介してビートカフェが発掘されて以来、賞賛を浴びている所以なのだ。「今は海外の人と簡単につながれるのがすごくいい」とソーシャルメディアを利用し始めたことについて彼は言う。人生のあらゆる側面において一見控え目に見えるが、ビートカフェのどのお客にでもいい、尋ねてみれば、Kato Manの音楽ヘイヴンは、渋谷で断然最高の隠れた宝石だと答えることだろう。

Lance Walsh(London)

現在59歳、そのSupreme中毒ぶりで話題となったロンドンの果物売り、ランス・ウォルシュ(Lance Walsh)。子どもの頃から地元で小さな商売をしたいという素朴な夢を持っていた。「若い頃に花屋で働き始めた。それからだんだん自分の店を持てるようになったんだ」と、かすかにコックニー訛りの鼻声がかった声で言う。

しかしそれはインターネット時代よりも前の話。現在彼がバーウィック通りに構える小さな果物店には、果物のエキゾチックさよりも、ホーム育ちのストリートウェアのアイコンとしての彼自身の変わった人物像こそが人を寄せ付けている。「地に足が着き、肩の力の抜けた」スタイルで、オレンジやパパイヤなどに囲まれてポーズを取った写真などをインスタグラムに上げるウォルシュのオフ会ともなると、54,000人のフォロワーを動員する。「いいね」の嵐が吹き荒れ始めてから起きた最大の変化は「世界中のファンに気付かれること。毎日声をかけられるようになったこと」だと言う。

30年以上にわたり「ソーホーの活気ある賑やかなコミュニティ」に欠かせない存在であり続けているウォルシュ。現在ソーシャルメディアで話題となっているのは「自分がしかるべきときにしかるべき場所にいる」からだと端的に言う。ウォルシュはかつて市場通いをし、収入の足しに、週末、シープスキンのコートを売る商売をしていた父親を手伝っていた。やがて土曜日の清掃の仕事に就き、次に見つけた花屋の仕事を15年間続けた。その後、当時としては日常的に食卓に並ぶものではなかったライチやパパイヤを売って生計を立てるようになった。

ウォルシュが昔からセンスの良い人物であったことは注目に値する。ウォルシュの幼い頃、未亡人で、オールドボンド通りのカシミア店で清掃婦をしていたウォルシュの祖母は、ぜいたくなセーターやソックスのサンプルをそっとウォルシュに持ち帰っていた。そしてウォルシュはやがて普通のハイストリートのものでは満足しなくなった。そして5年前、ハイプビースト(流行りの高級ストリートブランドを着こなす人たち)の仲間入りを果たした。

ウォルシュはストリートウェアを若者文化だけのものとする考えを嫌う。あらゆる分野の開拓者を応援するブランドであることを誇りとするブランドであるBURBERRYが新作スニーカー「アーサー」のローンチに向けたロンドン代表としてウォルシュを選んだのはまさにそのためだ。

ファッションはどんな年齢であれ遊び心と実験精神を持ち続けたものであるべきだ。

“ただ自分の人生を生きているだけ。仕事を通してポジティブさを発信できたらいい”

Tabitha(London)

Tabitha Thorlu-Bangura は元々、特に DJ になりたいと思っていたわけではなかった。が、人生はときに運命に導かれる。現在イギリスのアンダーグラウンド音楽シーンを支配する彼女は、ラジオ番組に NTS インターネットラジオ局でのクリエイティブパートナーシップディレクター、サマセットハウススタジオでの音楽プロデュースに文化イベント、TTB の DJ ネームでの DJ 活動をこなす彼女は実際、マルチクリエイティブとしか言いようがない。ロンドン(というよりもイギリス全国)に多様性とくつろぎのサウンドへの渇望があふれる今、シエラレオネの首都フリータウン出身の若手アーティストでありキュレーターであるタビサはロンドンで最も影響力のある文化プログラマーとしての地位を確立している。

新人アーティストの支援活動や、テート美術館を始めとする美術関連機構で「人々の脳みそをいじくり回す」彼女らしさが、インターネット上でも現実の世界でもファンを集めている今、BURBERRYのプロジェクトに関与することになったのも納得だ。多忙なスケジュールの合間を縫って、イギリスブランドであるBURBERRYの新作スニーカー「アーサー」をまとってにタビサがストリートに君臨する。日常的に何百万ものミーティングでロンドン中を駆け回ったり NTS オフィスの階段を昇ったり降りたりしている彼女はまさに適任だ。

あちこち駆け回ってDJやラジオ放送をこなすだけでも普通の人間なら目が回るところだが、彼女にとってそれはビジョンの一環に過ぎない。ラジオと言うと CDプレイヤーが主流だった時代だとか、大学の授業料が安かった時代と同じくらいに懐かしいイメージがあるかもしれないが、タビサはラジオは完璧なメディアと考えている。

“ラジオは人と人をつなぐ。ラジオ媒体の未来を疑問視する考えは違うと思う。どういう音楽を聞くべきかを指示するアルゴリズムなんて要らない。どの時代にも、人とより深くつながりたいと思う気持ちにこそ、変わらずにあり続けて欲しい。ラジオの真髄は大好きなものを共有すること。それが刺激的でないわけがない”

A$AP Eva(NYC)

マカオ生まれのジュエリーショップ経営者Chiokva Va Sam。人呼んでOG Ma、Gold Mother。マックルモア(Macklemore)のように第二の母と慕う者もいるが、その最もよく知られた呼び名はエイサップ・エヴァ(A$AP Eva)だろう。

A$AP Rockyの人気のおかげで、新しいチェーンを求めるA$AP Mobメンバーが、土産物店と観光客のひしめくマンハッタン、チャイナタウンにあるEvaの小帝国、Popular Jewelryに足を運ぶ。常連客は上流階級のセレブたちばかり。ファレルやシーロー・グリーン、ジャマイカ出身のミュージシャン、エレファント・マンも顧客名簿に名前を連ねる。またビヨンセのフォーメーションツアー向けジュエリーも特注製作している。24K のラグジュアリー。長年の間、Eva は着実にそのプラチナ色のキャリアを築いてきた。

1988年10月3日エヴァが初めてカナルストリート255番地の店舗物件のリース契約を結んだ日は奇しくもラッパーのA$AP Rockyが生まれた日だった。エヴァは既にジュエリー業界に旋風を起こす目標を見据えていた。抜け目のない起業家であるエヴァは、カスタマイズ可能なグリルズ(歯に取り付けるアクセサリー)やその他アイテムでラインナップを多様化させ、より広い層を惹きつけるジュエリー業界の先駆者の一人であった。しかし、彼女の成功を確固たるものとしたのは、こうした鋭い商才のみではない。赤みがかった栗色の雨よけを潜って店舗に入ってくるあらゆる人を抱き込む一体感がそこに寄与する部分が多い。来店するのは年収何千万以上の高所得者に限らない。競合ブランドよりも何年も前から一般消費者の心に熱望の火を灯すことにエヴァは成功していた。

そんな善き志を持った勤勉なる開拓者であるエヴァだから、BURBERRYの新作スニーカー「アーサー」のニューヨークアンバサダーの一人に抜擢されたのも頷ける。エヴァのビジネスを今に至るまで強め続けているのは、そのものづくりへのパイオニア精神と周囲への向き合い方だ。最先端技術を実験的に活用したジュエリーデザインを行うと共に、自身の店舗を不動の楽観主義へと向かう媒体として活用している。

エヴァは普段12時間以上休みなく働く。「ほぼ一日立ちっぱなし。スタッフやお客様に前向きなエネルギーを伝播するためには自身自身がポジティブな心持ちでいなければ」と言う。そんなことで、服装としては、着心地の良い、濃い色のものを重ね着し、足元はすべすべとしつつもしっかりとした質感のジョギング・シューズで固めている。

その気高さでトップに君臨するようになったエヴァは、自身の力で周囲をも引き上げようと心に決めている。

“私はいつだってリーダーでやってきた。私は周りの人にも、一番いい自分になれる努力をするモチベーションを与えてる。スタッフにも、誰にでも、生まれたときよりもいい世界にしてこの世を去るようにしましょうと常に伝えてきた”

Josh Hammond(Jayout)

デニー・モウのスーパースター・バーバーショップはお客が家族のように過ごせる場所だ。黒の回転椅子の回る音やハサミの音、お客の胸もとにかけるあずき色のケープが宙を舞う音が忙しく聞こえる中に、馴染み客、新入り客がじっと座る。頭をさっぱりさせ、他愛もない話をし、ときにはチェスに興じさえもする、そんなハーレムのような場所。「いちばんのやりがいは、お客さんに身も心も満足してもらえるようにすること」と、フィラデルフィア出身の理髪師、ジョッシュ・ハモンド(別名ジェイアウト)は言う。21年の研鑽期間の半分程度はデニー・モウで過ごした。そんな彼にとってこの店は聖域であり、高級化の急速に進む地域におけるブラックカルチャーの砦である。

歴史ある大通りであるフレデリック・ダグラス通りに構えられたデニー・モウズはアメリカにおける黒人経営理髪店の強固な歴史を今に引き継いでいる。元々は豊かな白人のパトロンの支援の下始まったビジネスで、地域でこうした商売を営むことにより、理容師やグルーミングテクニシャンたちは黒人の中でも早くに財を成すことができた。20世紀後半にかけ、こうした理髪店は、多くの黒人男性が散髪を受けながら家庭や教会、仕事のしがらみから逃れ、地元のゴシップや地域のハプニングを語り合い、心を寄せ合う場所へと変遷していった。

セラピーやセラピストにもいろいろなものがある。ジェイアウトは老若男女を問わず自店のあらゆる客に、丸ごと身を預けられるような安心感を与えたいと考えている。11年前フィラデルフィアからニューヨークに移ってきた彼は最初Levelsという店で働き、その後グーグルで「ハーレム No.1(理髪)店」と検索してヒットしたデニー・モウズへ移った。ウェブサイトの「哲学」のページには「自分の髪質や似合うカット、スタイルを知り尽くした馴染みのヘアスタイリストがいた古き良き時代は一体どこへ消えたかって?どこへも消えてはいないさ」とある。「ニューヨークのノリを身に付けたフィラデルフィア人」という彼の個性がインターネット上で多くのフォロワーを惹きつけている。

“スタイルとイノベーションを融合させることで独自のレガシーが作れるんだ”

この男にクリエイティブを許容しさえすれば間違いなく「かつてなかった何か」を見せてくれる。お店の標準メニュー、ヘアラインにもみあげ、首のタッチアップをカバーしたフルサービスのクラシックシーザーカットに加え、遊び心溢れるハスの花や流れ星、3つ葉のクローバー、トライブ調の幾何学形態のエンボスをあしらったアンダーカットも提供している。

ジェイアウト独自の精神に、BURBERRYの最新スニーカー「アーサー」は理想的なアクセサリーだ。偉大なるものに対するジェイアウトの渇望が、開拓者としてのBURBERRYの歴史と調和する。

仕事により、インターネット上の注目を浴びるジェイアウトは「出身地以外でも認知されるというのはうれしい」と感じている。しかしジェイアウトにとって何よりの喜びは、カットが終わり、デニー・モウズのガラス戸を出て行く顧客が見せる、それまでの人生で最高の笑顔に他ならない。

BUBRERRYの新作スニーカー「アーサー」にフォーカスしたポップアップがRスタジオ 表参道で開催中。

詳しくはこちらから。

Words by
engineer

世界を股にかける天才敏腕エディター